Song Stories

ジャマイカ

労働の辛さを歌う「バナナ・ボート」

「デーオ、デ・エ・エ・オ」と叫ぶように声を張り上げる米国のジャマイカ系黒人歌手ハリー・ベラフォンテの歌声は半世紀近く前、日本にも紹介されてヒットした。

一晩中、バナナを運んでいた荷役労働者が、夜明けとともに作業を終えて帰宅する。疲れ切ってすぐにうちに帰りたいから、俺が運んだバナナの数を早く数えてくれ、と訴えかける内容だ。歌の発祥は同じカリブ海のトリニダード島とも言われる。

島国のジャマイカだけでなくカリブ海に面した国々は当時、米国の「バナナ共和国」と呼ばれた。厳しい深夜作業にも関わらず賃金はきわめて安く、生きていくのがやっと。毎日運ぶバナナだが、自分たちは食べられず、食べるのはアメリカ人だ。

カリブ一帯の土地を買い、買収に応じない農民は軍の力で追い払って広大なバナナ園を所有したのが、米国のユナイテッド・フルーツ社だ。米政府と結託して中南米を経済的に支配した。今もチキータの名で日本にバナナを輸出している。

歌手のベラフォンテは社会活動家でもある。米国で公民権活動に積極的に乗り出し、黒人の人権を主張した。南米の反米感情に共感し、ブッシュ前米大統領を「最大のテロリスト」と呼んだ。

抑圧への不満を音楽で表現したのが、この国で生まれたレゲエだ。ボブ・マーリーは「やつらは満腹」で、悩みを忘れて踊ろうと歌った。やがて先祖のアフリカへの回帰を目指すラスタファリ運動につながる。

かつて英国の植民地だったジャマイカには、こうした抵抗の風土がある。山中に逃げ込んだ逃亡奴隷(マルーン)は各地に共同体を組織した。植民地政府の討伐隊にはゲリラ戦で応じ、ついに自治を認めさせた。

実は、それが今も続いている。標高700メートルの山奥にあるアコンポン地区の共同体を私が訪ねたのは2003年だ。トタン屋根の自治会館の壁には、植民地政府との間に結んだ条約が書いてあった。

第1条は「双方は敵対行為を永久に止める」、第2条は「我々は完全な解放と自由に置かれる」など。条約の締結は1739年。以来、ここは解放区なのだ。今もジャマイカ政府に税金を納めていないという。

住民は800人で、自治政府には首相以下、農業相、文化相など七人の閣僚がいる。議会も裁判所も学校も教会もあるが、警察はない。何か起きれば閣僚たちが解決する。

最大の収入は観光だ。私もかなりの入場料を取られた。帰り際、ペディー首相から「バナナ・チップの工場を建てたいが、日本から投資してくれないだろうか」と聞かれた。


バナナボート(ハリー・ベラフォンテ)訳詞付
Copyright©Chihiro Ito. All Rights Reserved. サイト管理・あおぞら書房