Song Stories

日本

戦地に赴く仲間に贈る「惜別の歌」

改築のため壊された東京・新宿区の国立競技場の一角に「出陣学徒壮行の地」の記念碑があった。1943年、召集された大学生がここから戦地に出発した。あの戦時中に徴兵された学生は13万人に及ぶ。

その一人が中央大学予科生で長野県出身の中本次郎さんだ。勤労動員され板橋区の陸軍造兵廠で旋盤を回したとき、隣の旋盤で働いていた東京女子高等師範学校(現在の御茶ノ水女子大)の女子学生から紙片を手渡された。

優しい文字で「とほきわかれに たへかねて」で始まる詩が書かれていた。島崎藤村の『若菜集』にある「高楼」の最初の二連だ。嫁ぐ姉と見送る妹が、別れを惜しんで互いに詠み合う形をとっている。

中本さんは紙片を親友で同じ予科生の藤江英輔さんに見せた。藤江さんは帰宅途中、深い雪を踏みしめながらこの詩をつぶやいた。くりかえしているうちに「かなしむなかれ わがあねよ」の姉が友に替わった。するとメロディーが突然、口をついた。

家に着いて『若菜集』を読み直した。当時、仲間が召集されても無言の別れをするしかないことに悔しさを感じていた。せめて歌を贈りたいと思った。その日のうちに曲を付けて「惜別の歌」と名づけた。

翌日、旋盤を動かしながら口ずさんでいると、周りの仲間が「教えてくれ」と言ってきた。真っ先に覚えたのが音痴の中本さんだ。だれかが召集されるたびに、みんなで歌った。やがて中本さんも召集された。苦悶の思いを記した大学ノートを藤江さんに託して。

そして藤江さんにも赤紙が来た。8月初めだ。9月1日に陸軍航空隊に入隊せよという。もはや自分の命もないと思った日、終戦のラジオを聴いた。

中本さんは生きて帰らなかった。藤江さんには、死ぬはずなのに死にきれないまま余生を生きているという思いがつきまとった。

「惜別の歌」は造兵廠で働いた学生たちによって全国に広まった。1951年には中央大学の学生歌となった。うたごえ喫茶で盛んに歌われたほか、小林旭や舟木一夫らが歌って広く愛唱された。

藤江さんは2010年、中央大学創立125周年の特別講演で歌の由来を語った。そのさいは紙片を渡されたのが自分だと話した。昨年10月に90歳で亡くなったため、どちらが正しいのか確かめられない。

出陣学徒の碑はいま、港区の秩父宮ラグビー場に移設されている。国立競技場が新築されたさいに再び、元の場所に戻る。


惜別の歌
作詞:島崎藤村
作曲:藤江英輔

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

Copyright©Chihiro Ito. All Rights Reserved. サイト管理・あおぞら書房