日本
遥か異郷から故郷を思う「異国の丘」
この冬、日本列島は厳しい寒さに襲われた。寒さの本場シベリアの気温を調べたら、東シベリアのベルホヤンスクは1月、零下45度だったというから驚く。海に面したウラジオストクでさえ零下20度以下だ。
旧ソ連が極東を支配しようとして建設したのがこの町だ。その名もロシア語のウラジ(支配)ヴォストーク(東方)から来ている。戦後まもなくこの町の郊外の収容所に抑留された日本兵の一人が吉田正だった。
吉田は戦時中に兵士となって満州に行った。そこでは零下30度からときには50度にもなったという。こう聞くと今の日本が暖かく思える。吉田は戦地で歌を作り、奉天放送局の音楽部長米山正夫に送った。
関東軍の大興安嶺突破演習の最中に盲腸炎になり、入院中に頭に浮かんだのがこの歌だ。原詞は「今日も越え行く山また山を 黒馬(あお)よ辛かろ切なかろ」だった。愛馬を慰める歌だったのだ。
戦後はシベリアに抑留され過酷な毎日を過ごした。酷寒の地でセメント作りや炭坑の採炭作業をし、生きて日本に帰ることだけを願った。くじけそうになる身を救ったのが歌だ。セメントの空き袋に五線を引き、メロディーを書きつけた。
仲間の元兵士たちは吉田の曲に思い思いの歌詞をつけて歌った。増田幸治は「昨日も今日も」の題で替え歌にした。それを終戦から3年後、NHK「素人のど自慢」で復員した兵士が歌い、全国に放送された。作詞家の佐伯孝夫が詞に手を加え「異国の丘」としてレコード化された。
この時点では作曲者がだれかわからなかった。米山正夫が吉田をNHKに連れて行って初めて作曲者が確定したのだ。戦友の手帳に書かれた吉田の手書きの原曲が証拠となった。
シベリアからさらに異国の中央アジアに移された人もいる。私は旧ソ連のウズベキスタンに行ったとき、日本兵2万6000人がこの地に貨車で送られ強制労働させられたことを知った。
首都郊外の日本人墓地には79人が土葬されていた。この国には日本人抑留者の墓地が13あり、計884人が眠る。せっかく戦争を生き延びたのに命を失うなんて、さぞ無念だったろう。葬る人々は死者のために、どんな鎮魂歌を歌っただろうか。
日本人だけではない。ウラジオストク一帯から中央アジアに連行された朝鮮半島の出身者は20万人もいる。スターリンは彼らが日本軍に協力することを恐れて引き離したのだ。市場でキムチを売り高麗人(コリョサラム)と名乗る彼らは、今もアリランを歌うという。
異国の丘
作詞:増田幸治
作曲:吉田 正
今日も暮れゆく 異国の丘に
友よつらかろ 切なかろ
がまんだ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日もくる 春がくる
今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 唄って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る
今日も昨日も 異国の丘に
重い雪空 陽がうすい
倒れちゃならない 祖国の土に
たどりつくまで その日まで