ジャーナリズム
ジャーナリストは左遷にも圧力にも屈してはならない
2020.3.19-20-21-22-28
朝日新聞の後輩で現役の社会部記者、青木美希さんが記事審査室という記事を書けない部署に異動させられることになりました。つまり左遷です。青木さん自身の怒りがFacebookにアップされ、大きな反響を呼んでいます。
僕自身、朝日新聞記者をしていたとき、記事審査室に追いやられた経験があります。なぜ追いやられるのか、そのときどうすればいいのかを僕自身の体験から語ります。参考になれば幸いです。(Facebookに投稿した5本をまとめました。)
左遷を逆手に取って、やりたいことをやれ
僕は30代の半ばで中南米特派員として民衆の立場に立った記事を書いてきました。そのあと社会部の記者を経て、発刊されたばかりの『アエラ』の記者を2年したあと外報部に戻ってほんの半年後に記事審査室にやられました。この職場は各社の新聞を読み比べて、朝日の記事が妥当だったかどうかを評価し、欠けている点がないかなど提言する部署です。記者として新聞に記事を書くことはできません。
この人事を聞いたとき、正直言って、怒りました。それは青木さんと同じです。当時、僕は誰よりもがんばって懸命に記事を書いていると自負していました。そのころ岩波新書の『燃える中南米』など、すでに本を3冊出していました。記者として乗っていました。
でも、上司はそういう僕を苦々しく見たのです。上司になる人の多くは社内で権力を握ろうと目指す人です。ジャーナリストというよりも、ジャーナリズム官僚です。こういう人にとっては、体制に問題を提起し弱者に視点を置く書き手はいない方がいいのです。さらに、そういう記者が社外で目立つのは目障りなのです。わかりやすく言えば「嫉妬」です。
この時の上司は記事審査室に異動させると僕に告げたとき、僕をラーメン屋に連れて行き、「何でも注文していいよ」と言うのです。そして彼はこう言ったのです。「外報部に戻りたかったら、記事を審査するさい、外報部の記事をほめろ」。また記事を書きたいなら、俺の言うことを聞けという脅しです。
このバカ野郎、と僕は思いました。この上司は僕をラーメン1杯で左遷させようとしているのです。ムラムラと反抗心が頭をもたげました。こんなやつの言うなりになってたまるか、と思いました。そこで朝日新聞の記事を審査したとき、彼の希望を打ち砕きました。外報部の記事をけちょんけちょんにけなしたのです。
記事審査室の仕事は、行ってみると予想外のメリットがありました。朝日、毎日、東京、読売、日経、産経の新聞を読み比べて5人ほどの部員が批評しあうのですが、僕は「国内の新聞だけでは世界の視点が見えない」と言って、これにニューヨーク・タイムズとメキシコの新聞を加えさせました。一つの新聞を最初のページから最後のページまですべて読み通すのは大変です。これだけ多くの新聞を読むと、新聞社によって書き方があまりにも違うこともよくわかるし、日ごろは素通りしていた記事も読めて、知識が急速に増えました。会社の給料をもらいながら自分の知識が増える。いわば社内留学したようなもので、むしろお勧めです。給料はがくんと低くなりましたが、その分、時間の余裕ができました。その時間を使って講演をし、社外の雑誌に記事を書きました。
当時の記事審査室の任期は半年でした。この間、あのにっくき上司が出世して別の人が外報部長になりました。彼の采配で僕はすんなりと外報部に戻って、バルセロナに支局長として赴任しました。
以上のことから教訓を。
(1) 上司は青木さんの活躍に嫉妬しているのです。ジャーナリストの風上にも置けないバカなヤツだと記憶に留めましょう。上司はやがて別の人に替わるのです。尽くす必要もない。
(2) 記事審査室に永久にいるわけではないし、メリットもある。「留学」と思えばいい。
(3) 記事審査室に行っても、朝日新聞以外の場所で記事が書けるし講演もできます。時間ができる分、社外に羽ばたけばいい。
その後も僕は2度、左遷されました。そのたびに蘇りました。左遷されたとき思ったのは、自分を「本業ジャーナリスト、副業会社員」と位置付けることです。社内で記事を書けるとき僕は他の記者の3倍くらい仕事をしました。左遷されたら給料を取材費にして自分で取材し、本を書きました。そうしたら上司は嫉妬して、こいつを暇にさせたらますます本を書いてしまうからと、元に戻すのです。
左遷されたときのコツは、左遷された立場を利用して、自分が羽ばたくこと、そして上司を「しまった」と思わせることです。ジャーナリストとしての存在は自分自身で貫けばいいのです。短気を起こして「社を辞めよう」としたら、バカな上司の思うつぼです。朝日をこんなやつらの思うままにさせないためにも、留まってほしい。辞めるのはいつでもできます。
「ジャーナリスト」と「マスコミ会社の社員」
新聞記者を目指す人の多くは、この社会が今より少しでも公正、公平になるよう尽くしたいと理想を抱きます。でも、ジャーナリズムの世界に入っただけならマスコミ会社の社員にすぎません。ジャーナリストになるには意志と努力が必要です。向き不向きもあります。
中には、取材のためにコツコツ努力するよりも手っ取り早く出世して現場を離れ、ふんぞり返って命令を出す立場にいたいと考える人が出てきます。志を持ったままの人でも、年齢が高くなるにつれて管理職にさせられるのが日本の会社の仕組みです。
管理職になると、職務として部下を管理します。部下の中に目立つ記者がいたら、その活躍に嫉妬する人もいます。嫉妬を表に出すわけにはいきませんから、「こんな奴を放っておけば、部の和が乱れる」という理由で排除にかかります。
このため僕は記事を書けない記事審査室に追いやられましたが、その間に部長が替わりました。悪い上司のあとにはよい上司が来るものです。新しい部長によって外報部に戻り、ヨーロッパに特派員で出ることができました。しかし、帰国すると社会部の川崎支局長になりました。つまり僕が管理職になったのです。
このままでいくと、どんどん「出世」して記事が書けなくなります。僕は出世するために入社したのではなく記事を書くために入ったのです。支局長の仕事は支局と支局員の管理、そして部下の面倒を見ることです。僕は最低限の管理しかしませんでした。支局員には、好きに取材するように言いました。
そこで記者が2種類に分かれます。指示しなければ取材しない記者と、どんどん自分で取材していく記者です。在日の問題を懸命に取材している要領の悪い記者がいて、僕は彼を徹底的に助けました。彼からはありがたがられましたが、管理職を期待する会社人間からは疎まれました。
このため、次のポストはまた左遷です。シンポジウムを開き、パネリストのお弁当やお車の手配をするフォーラム事務局でした。もちろん記事は書けません。でも、そこで「世界が平和になるにはどうしたらいいか」というシンポを企画してコスタリカのノーベル平和賞受賞者アリアス大統領を日本に招きました。
阪神・淡路大震災が起きると、会社をあげてNGOやボランティアを報道しようということになり、社長の肝いりで7人の記者が集められ「NGOチーム」が生まれました。僕もその一人に指名されました。この時の社長もいい人でした。上司は悪くても、その上の上司はいい人であるケースもあるのです。以後の2年間は世界各地を取材に飛び回りました。実質、記者への復活です。
その後はまた外報部に戻ってアメリカの特派員となり、赴任したのが2001年9月1日付けです。その10日後に9・11のテロが起きました。3年の取材の中で、会社はどんどん管理化が進みました。特派員が何を取材するか、東京が指図するようになりました。戦時中の大本営のようなものです。現場を知らないままで命じるから、見当違いも甚だしい。書きたい記事が載りません。ボツになった記事ほど重要な記事です。これを眠らせるのはジャーナリストとして納得いかない。そこでネットで「ボツ記事一覧」を出しました。それを見たスネオのようなデスクが部長にご注進して、「勝手なことをするな」と部長が僕を叱るのです。
何が勝手ですか。ちゃんと記事にして出したのに、デスクがボツにしたのです。それを発表するのが、何が悪いのか。これって情報を身内だけで隠匿しようとする大本営の体質そのままではありませんか。安倍と同じだよ。
このために本来の赴任期間より早く帰国させられました。東京に帰ると、会社の雰囲気が以前と全く違っていました。ちょうど小泉民営化の時代です。新しく就任した社長が朝日新聞に勤務評定を取り入れ、30分ごとに何をしたか報告せよと記者に迫りました。バカ野郎です。このために記者の多くが内向きの、上司に媚びるような記事を書くようになりました。
でも、社員もバカではありません。結束して、この社長を辞めさせました。編集局長も外岡秀俊君という、社会部出身のすこぶるいい記者が就任しました。彼は、戦時中に朝日新聞がなぜ軍部に屈服したかを検証するチームを発足させました。そしてすべきことをすると、自分で自分に辞令を出して記者に戻りました。
上司とけんかして勝つ方法
新聞記者は何か取材して記事を書くと、それをデスクに見せます。書いた文章が相手にちゃんと伝わるか、取材が足りない点はないか、などをデスクが指摘します。つまり添削ですね。それを毎日やるから取材力や文章力が上達するのです。記者みんなが最初から文章の才能があるのではありません。僕なんて高校時代に数学と物理の成績は良かったけど、国語はひどかった。40点だったこともあります。
添削ならいいのですが、記事の内容に立ち入って検閲のような目に遭うことがあります。駆け出しの支局にいたとき、5人から取材して市民運動について記事を書きました。デスクはOKと言ったのに支局長が介入して、もっと「さらっと」書けと言うのです。市民運動についてあまり紙面に載せたくないようなのです。こんなときどうするか?
支局長と新米の記者ですから上下関係も経験も、力の差は歴然としています。黙って従いがちです。しかし、心は納得していない。こんなことが続いたら、結局は「長いものには巻かれろ」というあきらめが、自分の中に定着するでしょう。
僕はそのとき思いました。支局長の言うままに記事を書き直したら、明日、新聞を見た5人から僕が抗議されます。そのとき5人に苦しい言い訳をするよりも、今、支局長1人を説得する方が楽だ、と。
するとこの5人が僕の後ろから加勢しているような気持ちになりました。1対1なら支局長に負けますが、5人が僕の味方になって1対6だと思えば、支局長の6倍くらい言葉が不思議にポンポン出てくるのです。思わぬ逆襲に驚いた支局長は、引きさがりました。
ベテランになって土曜版の『be』編集部にいたとき、長野県に取材に行きました。戦後間もなく国の憲法調査会によってつくられた「憲法音頭」を地元の市民が復活して憲法集会で踊っていることを知り、記事に書きました。これもデスクを通ったのですが、編集長が横やりを入れました。「こんな地方版のネタは全国版の紙面にはふさわしくない」とそこら中に聞こえる大声で削除を迫ったのです。要は、憲法について書けば社外の改憲派から何か言われるかもしれないから避けたい、という管理職の保守的な気持ちから出た発言です。
僕は反論しました。「地方ネタじゃない。憲法というれっきとした全国ネタだ。現地でしっかり取材して、これだけ裏付けがある。それを載せないというのは、何か不都合でもあるのか?」と。それをけんかする調子ではなく、ニコニコと述べるのです。
しばしのやりとりのあと、編集長はモゴモゴと言いながら引き下がりました。相手も言論人です。論理で立ち向かい筋を通して話せば、勝つことができます。こちらが毅然としていればいいのです。けんかをしていないのですから、部内のいい関係も保てます。
新聞社内で上司から圧力を受けて記事が載らなかった、という声をよく耳にします。でも、記者が跳ね返す努力をしていれば、記事にできたものがかなりあるのではないでしょうか。パワハラや思想的な弾圧だと感じたときは、すぐにあきらめるのではなく、それを押し返す努力をすべきです。
こんなことを言うと、「あなたは強いからいいけど、みんなはそんなに強くない」と言う人が出てきます。実際、2001年に新聞・放送の記者たちが集まって開いたシンポジウム「言論表現の自由」で、会場の参加者からそう言われました。TBSの金平茂紀さんらもパネリストで、その記録は『メディアの内と外』と言う岩波ブックレットになっています。
僕は答えました。「僕は生まれながらに強かったのではない。努力して強くなったのです。あなたも努力すればいいではないか」と。実際、僕は記者になりたてのころ、とても小心者でした。支局長から何か言われると、ただただ頭を下げて何も言えなくなってしまう弱い存在でした。それが、取材相手に対する責任を背に闘っているうちに、どんどん強くなったのです。自らの不断の努力をしなかったら、ジャーナリストという肩書を背負う資格はないと、僕は思います。
文字通りの弾圧のときは、ジャーナリズムの正論を主張すればいい。相手が本気で弾圧にかかるなら、僕は対抗して社の前でハンストも辞さないと本気で思っていました。それ以上言うなら、あなたと社長と会社を相手取って憲法違反で訴えますよ、という気持ちでいました。その気迫は相手に伝わるものです。でも、そこをソフトに、やわらかく、フレンドリーに言うのです。
さて、そんなふうに過ごしてきた僕なので、たいていの「弾圧」は跳ね返したのですが、朝日新聞にいて記事を本当に「弾圧」されたことが40年間で1回だけありました。
突然の記事差し止めへの対処法――要は記事が載ればよい
朝日新聞で会社側が記者を管理する傾向が急速に進んだ2000年3月のことです。当時、新聞に記者が自分の意見を書く「私の見方」というコラムがありました。縦10センチ、幅が30センチ近くもある大きな欄で、記者の実名だけでなく顔写真入りです。このコラムで僕は「コスタリカの〝平和輸出〟」と題した記事を書きました。軍隊をなくしたコスタリカのように、日本も平和憲法を駆使して世界に平和を輸出しようと呼びかける内容です。
「平和憲法を活用して積極的に海外の紛争や貧困をなくすことに尽くせば、私たちは日本人として、人間として世界に誇れるのではないか。憲法の活用、いわば『活憲』(かっけん)こそ、私たちが取り組むべきことなのではないか」とそこで書きました。僕が今も主張している「活憲」という言葉は、このとき初めて朝日新聞の紙面で提唱したのです。
記事はデスクの目を通り、印刷の前の「大刷り」という試し刷りも「OK」が出ました。安心して自宅に帰ったところに、デスクから電話が入りました。「編集局次長が、この記事は載せられないと言っています。申し訳ありません」と言うのです。
新聞社の編集部門には社会部、政治部などいろいろな部があります。それらをすべて統括するのが編集局長室です。局長が1日中そこにいるのではありません。夜になって刷り上がった「大刷り」に目を通し、最後に「これでOK」というGOサインを出すのは局次長の役目です。この時の当番の局次長が、僕の記事を差し止めたのです。
デスクはおろおろしています。僕の記事に替えて別の記事を急いで用意しなければなりません。なにせ締め切り時間の間際です。なぜ差し止められたのかを詳しく聞こうとしましたが、それに答える余裕は彼にない。
さて、どうしよう……と考えました。
こんなときの選択は普通、差し止めた上司と争うか、労働組合に訴えるか、泣き寝入りするかのどれかです。しかし、僕は書いた記事を紙面に載せることを優先しようと思い、そのためにはどうしたらいいかを考えました。
翌日、出社するとデスクが僕に謝りにきました。「申し訳ない」と繰り返すばかりです。なぜ差し止められたか、デスクも局次長から聞かされていませんでした。上司の指示に従っただけの彼を責めるわけにはいきません。「いやいや、あなたこそ大変でした」と慰めました。標的は彼ではありませんからね。
狭い社内です。2日後、ふと見ると、あの編集局次長が歩いています。僕はツカツカと近寄って行きました。僕の顔を見た彼はさすがにバツが悪そうな顔をしています。僕は、記事のどこが悪かったのかをやんわりと質問しました。詰問するような言い方ではなく、あくまでソフトに。今後のために教えてください……という。相手は僕が怒鳴るのを予想していたようで、彼からすると気味が悪いような低姿勢です。
局次長は「いや、憲法について記者みんなが意見を言いだすときりがないし」と言いました。ははあ、憲法について記事を出すと社外からいろいろ言われるのを恐れているのだな、とわかりました。管理職の事なかれ主義ですね。僕は「でも、これは意見を言うコラムですよ。憲法について意見を言って、何が悪いのですか」と静かに反論しました。すると、彼は困った顔をして「いや、新聞だから意見の記事でもニュース仕立てでないと……」と言いました。
僕は、しめたと思いました。「アドバイスありがとうございます。そうします」と言って、彼があっけにとられている間に、その場を去りました。そして、元の記事の中でニュース性がある部分を前に入れ替えてデスクに持っていき、「編集局次長の指示通りに記事を書き変えたから」と言って提出したのです。
デスクはぽかんとした顔で僕を見つめました。その後、デスクと編集局次長の間でどんなやり取りがあったかは知りません。ともあれ局次長はそれ以上の干渉はしませんでした。記事はそのまま掲載されました(写真参照)。
この局次長は記者時代に人権問題の本を書いたことがあるリベラルな人です。後には主筆という、編集の総責任者にもなりました。そんな人でも部下を弾圧するのです。いや、そんな人だからこそ社内の目配りのために、目立つ記者を見せしめにして、自分の公平感覚、管理能力を見せつけようとするのです。根が真面目な人ほど、管理職になると必要以上に部下を管理しがちです。
それから10か月後、僕は日本に「亡命」してきたペルーのフジモリ元大統領の会見記事を新聞の1面に大きく書きました。そのときの担当の局次長がこの人でした。その夜、彼は刷り上がったばかりの1面を手に外報部に駆け寄って来て、僕に「いやあ、よくやったね」と声をかけたのです。「この前はごめんね」と言いたげな表情です。
まあ、管理職とは、せいぜいこんなものです。彼らがやる「弾圧」の多くは、思想弾圧などという高尚なものではなく、管理というみみっちい立場に発する措置であることが多い。こんなとき、すぐに「闘おう」とするよりも、まずは記事を載せる方策を考えた方がいい。何をしても記事にならないと分かったなら、猛然とハンストでも裁判でも何でも、あらゆる手段に訴えればいいのです。
管理職もかわいそうなのです。管理職に就いた以上、個性だらけの記者をどうやって統制しようかと悩むのでしょう。彼らを最初から敵視して争うのでなく、彼らの顔を立ててやる度量も必要です。彼らのキーワードは「メンツ」です。うまくメンツさえ立ててやれば、管理職を手玉にとることができます。必要なケンカはしますが、無用なケンカはしないにこしたことはない。記者にとっては記事が載ればいいのですから。
「嫌なら会社を辞めろ!」という主張は間違っている
この記事は朝日新聞の現役記者、青木美希さんが「記事が書けない部署に異動させられる」と悲痛な声を上げた記事を見て、僕の経験から書き始めたのでした。彼女の投稿に対して、多くの人が「青木さんを今の職場においてほしい」と共感を寄せています。一方で、「組織に所属するのだから異動に文句を言うな。嫌なら社をやめるべきだ」という主張が、社内の記者から聞こえてきます。
それは違います。青木さんの書いた文を読むと、自分のわがままから不満を述べているのではありません。彼女は福島の現場を何度も訪れ、被害者の声を聞いて、今これを伝えなければならない、と悲壮なほどの思いで取材し、喉の奥から絞り出すような、読む人の心に訴える記事をたくさん書いてきました。彼女の著書の『地図から消される街』(講談社現代新書)に目を通すと、最初から最後まで、被害者の切実な声で埋まっています。よくこれだけ多くの人々の話を聴いたものだと感心させられます。
青木さんが願っているのは、自分の利益になる部署に行って楽な思いをしたいというのではありません。いま、直に聞かなければ埋もれてしまう被害者の声を少しでも多く集め、ひどい現状を伝えたいと思うからです。自分ではなく被害者の立場に立っているのです。彼女のことを非難する記者に言いたい。あなたは彼女ほどの取材をしているのか、被害者の心情は理解していても、その人々に具体的に力になっているのか。
青木さんが社会部からいなくなったあと、被害者の声を彼女以上に伝えられる記者が生まれるなら、それはそれですばらしいことです。朝日新聞の社会部がそんな記者を用意しているなら、立派です。注視しましょう。
思い出す人がいます。かつて中南米特派員をしていた1980年代、中米のニカラグアの左翼政権の閣僚だったカトリック神父です。彼は革新的な「解放の神学」の聖職者でした。虐げられた人々のために現場で尽くした。それに対してバチカンのローマ教皇庁の保守派が彼に「神父か閣僚か、どちらかを辞めなければ処分する」と圧力をかけました。その神父の記者会見に出ました。
僕は記者席の最前列の中央に座りました。目の前に神父がいます。白髪でいかにも真面目そうな表情が、見るからにやつれています。僕と目が合いました。悲しみと怒りが混ざった目です。
神父はつぶやくように言いました。「この国では内戦で8000人が殺された。教会は殺人に目をつぶれというのか」。最初は静かな口調でしたが、やがて両手のこぶしを握り締め、白髪を振り乱して叫びました。「国民は飢えている。教会は貧しい人々に黙って死ねと言うのか。教会は私に彼らを見捨てよと言うのか」。しばし沈黙したあと、神父は「私は貧しい人々とともに歩む。処分はきわめて苦痛だが、祖国と革命を放棄することはそれにも増す痛みだ。いかなる力も私から聖職を奪うことはできない」と言い切りました。教会の権威に抵抗して一人の宗教者として原点を貫く決意の表明です。
この人は本気だと感じました。彼は最後に「バチカンの政策には欧州の視点しかない。中南米と欧州の社会の違いを認識すべきだ」と語りました。心から共感する言葉です。
同じことを今回、青木さんを巡る社の人事に感じるのです。青木さんが、この聖職者に重なって思えます。彼女自身が述べていますが、彼女は会社の中で出世したいなどとは全く思っていません。最後まで一人の記者として活動し、社会の中で最も困窮した人々の声を伝えたいと願っています。今どきのジャーナリストとして稀有で崇高な存在です。
青木さんはとりあえず4月から別の部署に行くことになるでしょう。しかし、新聞には記事を書けなくても別の媒体に書くことができます。また、新しい部署でこれからの記者活動の役に立つ実力を身に着けることもできるでしょう。
僕の朝日新聞時代、最後の左遷が外報部から月刊誌への異動でした。その編集部に行くと、同じように政治部から「厄介払い」された記者がいました。高橋純子さん。彼女は今、大活躍しています。政治部に返り咲いたばかりか編集委員となり、安倍政権をこき下ろすユニークなコラムが社の内外から絶賛されています。もう一人の記者、大内悟史君は新聞に移って現代の社会や思想のあり様を鋭く指摘する記事をどんどん書いています。
僕はこの月刊誌に2年いました。その経験は今、とても役に立っています。政治や経済、国際、文化の枠を超えてさまざまな識者と接しました。自分でも水俣に取材に行って長い記事を載せ、国際問題の解説も書きました。編集部門にいるよりもむしろ自由に活躍できました。
青木さんが新しい部署に行ったあとも、ジャーナリストとしての活動を続けるとともに、やがて新聞に戻って来たとき大いに活躍するよう祈っています。
そうそう、先の神父はいったん処分されたあと、やがて処分を解かれました。4年前に亡くなりましたが、ニカラグアの国民からは今も尊敬されています。