ジャーナリズム
戦場取材における報道と命の危険
2015.12.26-27-28
今から26年前の今日、僕は銃撃戦のさなかにいました。東欧革命の真っ最中のルーマニアです。独裁者チャウシェスクに抗して革命が起きたのは1989年12月22日。僕はチェコでニュースを聴き国際列車に飛び乗りました。ルーマニアの首都に着いたのは翌23日午前11時半です。駅の外では独裁派と革命派が市街戦をしていました。戦闘が完全に終わったのが3日後の今日26日です。
足元を銃弾が跳ねた
石畳、石造りの市街戦は跳弾が飛び交い、前後左右から弾が飛んできます。僕は駅の外の大通りを走る避難民の車を片っ端から止めて、取材用に使わせてくれと頼みました。10台以上それをやって協力してくれたのが大学教授です。「銃撃戦の一番激しい場所に行ってくれ」と頼みました。
ほんの数ブロックで横道から戦車が出てきました。銃座の兵士が三色旗の腕章をしています。革命派です。インタビューしようと車を出て走ると、左の建物から銃撃されました。独裁派の狙撃手です。足元を弾が跳ねます。僕は車の陰に滑り込み、戦車の機銃が建物に向けて火を噴きました。
さらに進むと20~30人の人が僕の車を取り囲んで「トランクを開けろ」と叫びました。目が血走っています。血がにじんだ包帯を頭に巻いた青年もいます。彼らは街を走る車を次々に検問して、独裁派の兵士に弾を運ぶ車を阻止していたのです。
代表格の女子大生になぜこんなことをしているのか問いました。「革命が始まった。でも、独裁派の方が優勢な武器を持っている。黙っていれば革命は失敗する。勝つためには市民が立ち上がらなければいけない。そう思って勇気を奮い起こして外に出たら、みんな同じ思いだった。話し合って検問を思いついた」と言うのです。
大通りの両側で銃撃戦をしていました。通りの向こう側の建物の窓から独裁派の兵士が銃を撃っています。ところが、市民20人くらいが身をさらして兵士に怒鳴っています。弾の飛び交う大通りを駆け抜け、市民に合流しました。
市民の1人が兵士の一隊を連れてきました。指揮系統が切れて何をしていいかわからない兵士たちを、市民が説得して革命派に引き入れたのです。「あそこに独裁派がいる。突っ込め」と市民が叫ぶと、兵士たちはビルに突入しました。
このような市民の勇気がなかったら革命は失敗したでしょう。3日間の銃撃戦に身を置いて体感したのは、立ち上がった市民が一人でも多くの市民を味方に引き入れる努力をして初めて新しい社会が実現したことです。
どんどん危険な方向に行く今の日本でも同じではないでしょうか。「これからどうなるのか」と不安がるよりも、「何をすればいいのか」を同じ思いの人々と考えあい行動することです。市街戦下の市民のことを思えば、日本でやれることはいくらでもあります。
恐怖でめまいに襲われながら現地に留まる決意をする
1989年12月24日、つまりクリスマスイブの日の明け方、午前4時。ルーマニアの首都ブカレストのホテルで寝ていた僕の枕元の電話が鳴りました。日本大使館からです。前日にルーマニア入りしたとき僕は日本大使館に連絡していました。紛争地に入ったジャーナリストは死ぬ危険と紙一重です。遺体を引き取ってもらうためにも、こうした場合は現地の大使館に連絡するのです。
大使館の書記官は「独裁派が力を盛り返して革命は失敗しそうです。首都にいる外国人は皆殺しにされるといううわさが広がっている。日本大使館は在留邦人全員を連れて車で脱出することにしました。すぐ荷物をまとめて大使館に来てください」とせっぱつまった声で言うのです。在留邦人を乗せるバスが用意され、午前7時45分に出発するということです。
しばらくしてホテルに大使館の職員が迎えに来ました。僕は「革命がつぶれそうだというのは、どこの情報ですか」と問いました。言ってはなんですが、紛争が起きると日本大使館はすぐに逃げるのです。だから疑ったのです。するとアメリカ大使館の情報だと言います。つまりCIA情報です。
「海兵隊が先導してアメリカ大使館、在留アメリカ人、日本大使館、在留邦人の順で車列を用意します。全速力で2時間かけて隣国のブルガリア国境を抜けます」と言うのです。まあ、アメリカと日本の力関係を絵に描いたような順番です。でも、情報筋がCIAであり海兵隊も逃げると聞いて緊張しました。当時のCIA情報はかなり正確でした。しかも最強の海兵隊が逃げる……。
「ここで死ぬかもしれないな」と思ったとたん、軽いめまいに襲われました。でも、取材に来たのですから出国するわけにはいきません。「ご連絡ありがとうございました。僕は留まります」と答えました。
このとき、もう一人、記者がいました。前夜遅くにパリから飛行機をチャーターしてきたNHKの記者です。着いたばかりでまだ何も取材していない彼は「僕には妻も子もある。こんなところで死にたくない。臆病者と呼ばれてもいい。何と非難されてもいい。僕は出ます」と言いました。
まあ、彼の気持ちはわかります。僕だって妻と、幼稚園から小学生まで3人の子を抱えていました。死にたくはない。でも、「こんなところ」って言葉はないでしょう。日本から見れば東欧の辺境かもしれないが、今は歴史の転換点で、世界が注目しています。ジャーナリストにとって、一生に一度、遭遇できるかどうかの「身体をはるべき場」です。
ここで逃げても誰も非難しないでしょうが、少なくとも自分で自分を許せない。以後は自分でジャーナリストだと胸を張れなくなる。ジャーナリスト生命を断つくらいなら、ここで死んだ方がましだと思いました。
大使館員とNHK記者が出て行き、ホテルのロビーに一人残されると、にわかに恐怖がこみ上げてきました。左脚がガクガク震えて、両手で押さえても止まらないのです。必死で耐えました。
幸い、情勢は好転しました。それは独裁者チャウシェスクが即決裁判で処刑されたからです。守るべき者がいなくなったため、独裁派は急速に力を失いました。あのとき世界では「たとえ独裁者でも簡単に処刑するべきではない」と言いましたが、現場はそんな悠長な状況ではなかったのです。処刑がなかったら革命は失敗し、僕も生きて帰れなかったかもしれません。
こんなことを書くのも、シリアで行方不明になったフリージャーナリストの安田純平君のことを考えるからです。危険だとわかっているのに、なぜそんなところに行くのだと、世間は非難します。
しかし、危険かどうかは問題じゃない。そこが歴史の転換点であり、情報の空白地なら、ジャーナリストは行くのです。危険だからと逃げるようなメディアに、彼を非難する資格はありません。
僕を奮い立たせたルーマニアの少年の叫び
戦場取材はけっしてカッコイイものではありません。取材と命のぎりぎりの線を天秤にかけて行動するのです。取材したことを伝えて初めて意義があるのですから、死ぬわけにいかないのです。でも、死を恐れたら取材できないのです。
両側で撃ちあっていた大通りを駆け抜けたことを「戦場取材における報道と命の危険」で書きました。このときも向こう側に行くかどうか、臆病なほど迷ったのです。道路の向こうの現場に行けば新聞の30行分のネタになると長年のカンでわかりました。でも、行くには撃ちあいの中を50メートル走らなければなりません。命の保障はない。
頭は「行きたい」と言うんです。でも、足が「行きたくない」と言うのです。足が固まって、歩道から車道への最初の一歩が踏み出せません。かなり逡巡しました。まあ、ものの1~2分だったのでしょうが、僕には永遠の時間のように思えました。
そのとき僕のそばにいたルーマニア人の少年が「ブシドー」と叫んだのです。武士道です。彼は取材中の僕を見て、ボランティアで道案内の助手になってくれたのです。日本のチャンバラ映画を見て「ブシドー」を知ったのでした。
ルーマニアの少年から武士道と言われると、ひるむわけにいかないじゃないですか。観念して走り出しました。身をかがめて中腰で走ります。耳元でヒュンヒュンと弾の飛ぶ音がします。体が重い。速く走りたくても身を伸ばせない。50メートルがとても長い時間に思えました。
防弾チョッキを使えばいいと言う人がいますが、そんなもの市街戦のさなかで手に入りません。入っても僕は使いません。重くて行動の邪魔になるからです。長年の戦場経験から言って、危険地帯では身を軽くするのが一番の安全策です。それに防弾チョッキを身に着けると取材が及び腰になります。何かにつけ身を守る発想になるのです。取材に来たのなら、記者はそんなものは着けない方がいい(身を乗り出して静止しなければならないカメラマンは別ですよ)。
まあ、生きて帰ったからこんな事も言えるのです。ルーマニア入りした記者の中にはホテルから一歩も出なかった人もいました。なぜそれを知っているかと言うと、この記者の助手から聞いたのです。当時、貧乏で通訳で暮らしていたのがピースボート代表の吉岡達也です。暴れん坊の吉岡はさかんに取材に出ようとけしかけたのですが、記者は「危険だから」と言うばかりだったそうです。まあ、それをとやかく言う事はできません。僕が死亡あるいは負傷していたら、彼の選択が正しかったと言われたかもしれません。
取材地で多くのジャーナリストが亡くなりました。最近でもシリアの山本美香さん、後藤健二さん、ミャンマーの長井健司さん、ベトナムでは数多くいました。生きている『DAYS JAPAN』の広河隆一さんだって、いつ死んでもおかしくない現場を何度も踏んでいます。ジャーナリストは一瞬一瞬、ぎりぎりの選択をして伝えようとしているのです。
そうそう、ブシドーの少年は名をクリスチャンと言います。市街戦が終わった3日後に初めて僕は「君は何者なの?」と聞きました。彼はハッとした表情になり急に笑い出しました。「そうだ、僕は病人だった」。重病のため首都の病院で検査を受けるために地方から出て来て革命に遭遇したのです。その彼が僕といっしょに戦場を全力で走り回りました。
すべてが終わったあと彼に感謝の意味でお金を渡そうとしました。彼は受け取りませんでした。「革命に尽くしたのであって、カネのためじゃない」と言って。しかたなく腕の時計をはずして記念に受け取ってもらいました。崇高な、水晶のような精神を彼の瞳に見ました。