個人的な話
ふたつのグレートジャーニー
2015.11.29
今日、僕が住む街で行われた講演会を聴きに行きました。話したのはグレートジャーニーで名高い探検家の関野吉晴氏です。僕にとっては「戦友」のような存在です。
今から43年前、大学4年だった僕はジャーナリストになりたいと思って、朝日新聞を受験しました。今でこそマスコミ志望者は激減していますが、当時、朝日新聞は大学生の人気企業の第3位だったのです。内定の電話をもらったのは7月でした。もちろんうれしかった。でも、受話器を置いて窓を開け、涼しい風が頬を撫でたとたん、嫌になったのです。
新聞社に入社すれば休みもろくにとれないでしょう。自由な学生時代にもっと旅がしたい……という気持ちが猛然と沸きました。その前年に初めての海外の旅でキューバにサトウキビ刈り国際ボランティアに行き、その足で世界一周旅行をしたばかりです。でも、まだ満足するほど旅をしていないと思いました。とはいえ、お金がない……。
当時、サンケイ新聞が「アドベンチャープラン」を募集していました。世界中どこでもいいから探検、冒険するプランを立てて応募せよ、採用すれば1000万円を出すというのです。これに応募しました。
どこに何の探検をすればいいのか、なんて考える暇はありません。なにせ締切が迫ってました。そこで決めたテーマが「旅」です。僕はなぜこんなに旅をしたいのだろう。いや、僕だけでなくみんな旅をしたいと思っている。なぜ人は旅をするのか、を掲げました。
思いついたのは、人生を旅で過ごしている流浪のロマ民族、当時はジプシーと呼ばれていた人々です。彼らを文化人類学的に調査すれば、人間と旅の関係が見えてくると思ったのです。
応募書類をつくって出しました。書類審査が通り、面接では審査委員長の西堀栄三郎氏や梅棹忠夫、北杜夫氏らそうそうたる審査員に根掘り葉掘り質問されました。最終審査で通ったという連絡を受けたのは、朝日新聞に入社する1週間前です。
悩みました。すでに入社前の合宿もやり、無線の試験も受けて合格をもらっています。初任地は新潟支局ということまで決まっています。このまま入社するのが常識でしょう。
「流浪民族の調査をやって人生に何の得があるのか、せっかくの就職を棒に振るのはバカではないか」と右の耳にささやき声が聞こえます。でも、左の耳には「損得勘定を超えてやりたいことをやるのが人生じゃないか」という声が聞こえます。人生で最も悩んだのが、この1週間でした。
流浪の旅をとりました。決め手はロマンと現実のどちらの人生を歩むか、でした。もし、ここで就職を選んだら、自分は一生、地位やカネを求めるだろう、それは嫌だし、拒否しなければならないと思ったのです。何の得にならなくてもいい、自分のやりたいことをやる人生がいい。そう思いました。朝日新聞に行って入社を辞退し、サンケイに行きました。
そこで聞かされたのは、僕のプランのほかにもう一つ通ったプランがあるというのです。一橋大学の探検部が出した企画でアマゾン川をイカダで下るという計画で、リーダーが関野氏でした。二人で1000万円を分け合い、彼は南米へ、僕は東欧に向かいました。1973年のことです。
以来、まったく会っていませんでした。僕が翌年、朝日新聞の試験をもう一度受けて再び入社し、中南米特派員になった1986年に南米ペルーの日本大使館でたった1時間のすれ違いで会えなかったニアミスがあるだけです。
その彼と今日、42年ぶりで会いました。彼の顔はまったく変わっていません。いや、むしろいっそう童顔になっています。いい顔をしています。彼はいま探検を続けつつ、大学教師もしています。学生にカレーライスを一から作らせるのだそうです。ビーフカレーを食べたいなら牛を飼うところから。米を作り、スパイスを育てるところから。いいですね。
講演の中で彼は、人生の選択としてジャーナリストも考えたと言います。でも、相手を調査するより友だちでいたかったからこの道を選んだと言うのです。ここが僕との違いですね。僕は調査をしたかった。言葉を替えれば知的好奇心を求めました。彼は自然や人間とのつながりを指向したのです。僕は僕が選んだ道に満足していますが、彼の人生を心から尊敬します。
講演を終えると主催者がさっさと彼を隔離し、またもやすれ違いに終わりました。冒険とロマンの人生を二人で語り合える日は、いつか来るのでしょうか。実現するなら海の上がいいなあ、デッキで夕日を見つめながら……。
写真=1973年、東ヨーロッパ、ルーマニア西部のティミショアラ郊外の草原で、ロマの幌馬車に乗った24歳の僕です。